──殻を破った瞬間が、魔女としての私の始まりだった。


 前を歩く大人たちの影に隠れるように、幼い少女は壁外を進んでいた。

 乾いた風が吹きすさぶ荒野に果ては無い。だだっ広い乾燥した大地には岩場がぽつぽつと点在し、照りつけるような太陽光がうなじを焼く。

 少女は砂埃が入らぬよう首に巻いた布を口元まで引き上げ、前を歩く父の上着の裾をぎゅうと掴んだ。

「どうした、疲れたかい」

 振り返った父の問いに、少女は無言で首を振る。初めて歩く地に恐怖もあれど、未知の景色にわくわくしているのも否めない。にこりと微笑んでみせると、父は柔らかく目を細め、裾を掴んでいた少女の手を握ってくれた。

 こっそりついて来てしまった娘を見つけた時には叱りこそしたが、父はどこまでも少女に甘く優しい。

 少女は、自分の気持ちを言葉で伝えるのが苦手であった。乱暴な男兄弟たちは口より先に手が出るため、幼い少女が何を言っても無駄なのだ。

 いじわるな兄弟から逃げ、泣きながら行き着くのはいつも父のところだった。何を言っても聞かない兄弟たちも、父の一喝には逆らえない。父の大きな手に気が済むまで頭を撫でてもらったあとは、その腕にしがみついたまま家に帰る。少女は父が大好きだった。

 父はそれを解って壁外の調査に行くことを黙っていたのだが、壁外に行こうとする父と大人たちを見つけてしまった少女は、じっとしてはいられなかった。壁の向こうには何があるのか。ずうっと気になっていた外の世界に、大好きな父が行こうとしているのだ。ついて行くなという方が難しい。

「なあ、なんだか息苦しくないか」

「暑いからなぁ。休憩でも取るか、あのデカい岩の影なら休めるだろ」

 先頭を歩いていた男が愚痴をこぼし、隣に並ぶ男が斜め右方向を指差す。

 少女の後ろにいた青年も疲れきった声で賛成の意を告げる。大人たちは皆、やけに疲弊していた。

 無理もないかもしれない。何十年も出てはならないとされていた壁外に出向くため、連日綿密な準備を重ね、数日分の水と食料を背負いながら一行は進んでいる。

 見知らぬ土地を、何が起こるかもわからないと気を張りつめながら歩くのは、並大抵の精神力では叶わないだろう。

 どれだけ歩いてもほとんど変わらぬ景色と、横殴りしてくる風、肌を焼く太陽光に奪われていく体力も馬鹿にはできない。

 父親に守られながら歩いている少女より、大人の方が大変そうだ。少女はそう納得して、できる限り邪魔にならないようにしようと決める。

 だが、状況はそう簡単なことでは無いようだった。

「……はっ、はっ……」

 皆は一歩歩く度に、浅く短い呼吸を繰り返す。息苦しいと最初に言った男は、自身の胸元を押さえながら喘ぐように息をしている。他の男たちも、次第に苦しげに呼吸をするようになり、酸素を求める音で少女は取り囲まれた。

「おとうさん……? どうしたの? みんな疲れちゃったの?」

 気づけば真っ直ぐ立っているのは少女だけだった。

 確かに暑いし、たくさん歩いた足は疲れているが、空気は澄んでむしろ心地よく感じるくらいだった。

「……っ、息が……ろぜ……おま、え、は……っ、は」

 わたしは大丈夫だよ、と答えようとした瞬間、父は崩れるように倒れる。

 父が膝をついたのを皮切りに、大人たちは次々に倒れていく。

 何が起こっているかなんて全くわからない。少女は倒れた父の腕に縋り、どうしたの、大丈夫、と繰り返し問うが、父は声を上げることももうまともにできそうにないくらい、呼吸が苦しそうだ。

 無論、それは父だけではなかった。

 大人たちは皆、胸元を、肺を押さえて、喘息のように空回る空気音を上げている。充血した目をかっ開き、足掻くように手足をじたばたしている者もいる。

「わたし……わたし、人を」

 誰か助けてくれる人を呼んで来なければ。

 幼い少女にできる事はそれだけだ。溜まった涙をぐっと目を瞑って零し切り、少女は自身を奮い立たせて、来た道を振り返る。

 遠く見える都市・エンクラティア。今朝出立したそこは遠く離れているが、他に目立つ物が何もないためすぐに見つけることができた。

 何時間かかるかなんてわからないけど、走って、あそこに戻るしかない。少女は覚悟を決めて走り出した。

 しかし少女はすぐに、立ち止まる事となる。

 金属がこすれ合うような、不快な音が近づいてくることに気づいたのだ。

 何も無いはずの荒野に、巨大な影が過る。

 刺々しく歪な影はすぐに大きくなり、少女を丸ごと覆い込んだ。

 何かが、いる。

 後ろから何かが近づいてくるのがわかる。反射的に身体が震える。少女や大人たちより遥かに巨大で、嫌な音を搔き鳴らして動いている何か。

 少女が恐る恐る音のする方へ首を曲げると、太陽を背にした巨大な生き物が、いた。

「が・ががガぎ、ギギぎゃ・ガ……」

 ひっと引きつった悲鳴が少女の喉で鳴る。

 ──怪物。

 母から聞かされていた寝物語に登場するソイツは、子供たちを壁の外に出さないための創作に過ぎないと思っていた。

 およそ生物らしくない金属質な装甲と、その隙間から漏れ出る瘴気。見せつけるように広げられた、ぬらりとした両翼。その裏にびっしりと敷き詰められた魔石・シーラ。少女の前に姿を現した巨大なソイツは、怪物と呼ぶに相応しかった。

 黒々とした眼に何が映っているのかは読み取れない。だが怪物は人間が集まっている方向を抜け目無く嗅ぎ付ける。

「ガァ!」

 怪物は複数ある足を車輪のように回し、砂埃を上げながら駆け出した。

 少女をめがけて。

「ロゼット!」

 固まってしまった少女の名をがらがらの声で叫び、父は力を振り絞るように立ち上がった。

 地面を削るように向かってくる怪物は、避けることも逃げることも許してはくれない。

 纏った瘴気が薄雲のように膨れ上がり、ギャアと金属がぶつかり合うような声を上げ、怪物は翼を広げて腕を振り上げた。

 父はよろめきながら少女の前で両腕を広げる。

 怪物は少女の盾となった父に、無情にその爪を振り下ろした。

「……っ!」

 鋭い爪が一瞬にして、父の頭部を破壊したたき落とす。

 父は声を上げる間もなく、動くこともできず、振り下ろされた刃のような爪で頭蓋骨を破られた。びしゃ、とぬめった水音が響き、赤黒い血が地面を濡らす。

  少女は絶句した。恐ろしいと思えれば、まだ幸せだっただろう。

 あまりに圧倒的で、あまりに一瞬の惨劇は、少女の心をただ怒りだけで埋め尽くした。奪われた。理不尽過ぎる。まだ父に握ってもらった手には温もりが残っているのに。

──何? 何なの? 今いったい、何が起こったっていうの?

 どくどくと心臓が早鐘を打ち、頭に血が昇っていく。額が熱い。目の前では次々に大人たちが怪物に襲われ、悲鳴を上げながら逃げ惑っても、背中から、足から、肩から、頭から鋭い爪に削がれてただの肉塊に成った。

 十数人いた大人が皆息絶えると、怪物はまだ物足りない、とばかりにぐるりと首を回し、小さな少女を再び捉える。

「……はー……はー……」

 こめかみに巡る血の勢いがわかるほどに、少女の感覚は引き上げられていた。荒い息を吐きながら、怪物がこちらに向かってくることを認識する。

 振り上げられた黒く禍々しい怪物の手腕。

 あれが振り下ろされれば、自分も父と同じように引き裂かれるだろう。

 それでも少女は動かなかった。限界を超えて握りしめられ、深々と爪が食い込んだその小さな拳から、真っ赤な血が流れ落ちる。



 そのときだった。



 少女が握りしめた拳の周囲に、湧き上がる怒りに呼応するように光の粒子が集まり、まとわりつく。その光が何なのか、なんて少女が考えている暇は無い。ただそれが集まるごとに力がみなぎり、視界がやけにはっきりとしていくのがわかった。

 自分の何十倍も大きい怪物が、真っ直ぐこちらに向かってくる。

 だが少女は退かない。正面から怪物を睨みつけ、どんどん熱くなる拳に力を込め、来る衝突に備えた。

 本能で理解していたのだ。

 これまで人の影に隠れ、何もできずにいた弱い自分を捨てて、運命に立ち向かわねばならない。

 その覚悟を決め、この拳を怪物に叩き込み、固い装甲を砕いたら、怪物を倒すことができるのだと。