──ノブレス・オブリージュ。
これは私が一番大事にしている言葉。高貴なる者には義務がある。
敬愛するおばあさまが教えてくれた、古い、古い……途方もないくらい昔の、今は廃れたとされる国の言葉。
高貴なる者、すなわち、魔女である私には義務がありますの。
世界にひとつしかない都市・エンクラティアという地と、そこに住む民たちを守り、文化を発展させ、人類を幸福へと導く義務が。
──ノブレス・オブリージュ。
これは私が一番大事にしている言葉。高貴なる者には義務がある。
敬愛するおばあさまが教えてくれた、古い、古い……途方もないくらい昔の、今は廃れたとされる国の言葉。
高貴なる者、すなわち、魔女である私には義務がありますの。
世界にひとつしかない都市・エンクラティアという地と、そこに住む民たちを守り、文化を発展させ、人類を幸福へと導く義務が。
シャヴルールの魔女・フレアは苛ついていた。
足場の悪い整備されていない道を歩く彼女の頭に過ぎるのは、先の戦闘。人々が住まう唯一の都市・エンクラティアの壁外に現れた“クラッド“を倒すための戦いでの、粗暴な魔女たちの誇り無き行動。
「……本当に、なってないのよ。他の地の魔女は」
今日現れたクラッドは、その長い胴体から“ワーム型”と呼ばれる個体だった。フレアはいち早く現場に駆けつけ、結界を張り、着実にクラッドを追いつめていた。首周りの固い鱗……のように見える装甲を一枚ずつはぎ、こちらの守備を完璧にして徐々に、徐々に、計画的に攻撃を与え続けていたのに。
最後の最後、振り下ろされたクラッドの尻尾をフレアが避けた隙に、飛び込んでいったリュコスの魔女がとどめを刺したのだ。それは全力を尽くすことをせず、手柄を得ることを優先した戦い方であった。
「あのような戦い方をして、貴女に誇りはないんですの? 」
戦いを終え、シーラのほとんどを独り占めしていったリュコスの魔女に、フレアは思わず苦言を呈した。
だが当のリュコスの魔女の態度は、けろりとしたものだった。
「誇りってのは食えるの? 僕は食えないものはいらない。なんなんだよ、君が言うその誇りってのはさ」
食べられるのか? 誇りが? そんなわけはないじゃないか。
だが大事にすべきものなことには変わりないだろう。この痩せ細った、まだまだ子供にも見える魔女はいったいなにを自分に問うているのだろう。
誇りとは何か。無邪気なその問いが、頭の中で何度も繰り返される。
フレアは苛ついていた。手柄を横取りされたことにも、卑怯で野蛮なリュコスの魔女のやり口にも、その魔女の問いに、即答できなかった自分にも。
「誇りってなに……って、どういう意味で言ってるんですの?」
ざり、と爪先で地面を擦る。出ない答えを探して歩くうちに、整備された道へと出ていた。都市・エンクラティアの要、経済発展地シャヴルールの領地が近いのだ。
フレアは立ち止まり、自身のスカートの裾を払う。繊細なレースを整え、汚れやほつれが無いかを確認した。戦闘で乱れた髪を今一度手で梳き、そして深く息を吸って静かに吐き出し口角を上げる。
魔女としてシャヴルールの地に帰る、準備ができた。
いざ自分の領地へと足を踏み入れようとして、フレアはふと、道端に目を留める。
こちらをじぃっと見ている視線に気づいたのだ。道端には、簡易な門に背を預け、ぐったりとした子供がいた。歳は六つか七つほどだろうか、恐らくはフレアの半分も生きていないだろう。
子供は埃まみれの古い布切れをまるで服のように纏い、ほとんど骨しかない手足を力なく投げ出している。伸びきった髪の先は枝分かれし、長い前髪に顔が隠れていて、やけにぎらついた瞳以外はよく見えない。
「ごきげんよう」
フレアは迷わず子供に近づき、目線を合わせるようにしゃがんだ。努めて優しく、柔らかく微笑み語りかける。
そう、高貴なる者として。
「迷子ですの? 親は買い物でもしているのかしら」
ゆっくりと問うてみるも、子供はかさついた唇を開こうとしない。
代わりぐう、と。子供の腹の音が鳴った。
フレアはその瞬間、迷わず子供の手を取った。困窮している民が目の前にいて、何もせずにはいられなかった。
「ほら、まずはお風呂に入っていらして」
フレアは子供を自分の家へと連れ帰った。シャヴルール、ひいてはエンクラティアの中で一等上等な家だ。
壁から遠く、安全な地に建つ家。屋敷と呼んでもいいかもしれない。部屋数も多く、使用人を何人も抱えている。窓からはシャヴルールの領地が一望できる。高地に建っている理由は、勿論ここが、魔女が住む屋敷だからだ。
「貴女が湯を浴びている間に、食べるものを用意させますわ」
そう告げるとようやく子供は頷き、使用人の後をついて風呂に向かった。
フレアは簡単な食事を用意するよう言い、自室で子供を迎える用意を終えた。
やがて風呂から上がった子供が自室を訪れると、ぽかんとした顔で部屋を見回す。椅子も机もまるで初めて見たかのように恐る恐る触れ、壁にかけてあるフレアの首飾りや腕輪を惚けた顔で凝視する。
湯浴みをさせた使用人によると、この子供は少女らしい。煌びやかな宝飾品に興味を持つのも頷ける。
「お待たせいたしましたわ。ほら、お食べになって」
どうしたらいいものかと立ち尽くしていた少女を椅子に座らせ、小麦を焼いたパンとスープを与える。少女はもう一度腹を鳴らし、はぐはぐと食べ始めた。
この少女はシャヴルールの子供では無いのだろう。
世界で唯一の都市・エンクラティアはいくつかの地域に分かれている。
エンクラティアの中心部、その地下に巣食うように住む変人集団、アラネオ。
中心部の上部に枝を広げるように居住地を広げ、ひっそり暮らすヴァローナ。
壁近くに住む喧嘩好きの輩が属する、ラガルト。
同じく壁際に点々と存在する個人主義者たち、リュコス。
そして最も人口が多く、農耕地や経済の運用を行いエンクラティアそのものの生活を支える文化的な人々が暮らす、このシャヴルール。
他にも複数地域は存在するが、何にせよシャヴルール以上に住み良い場所はない。当然だ。誇り高き魔女の下に集う人々は、同じく志し高く善良な人間ばかりなのだから。
故に少女は他の地域から来たことは間違いない。食べるに困り、貧相な身なりの子供はシャヴルールにはいないはずだ。
「ねえ」
むさぼるように食事をする少女に、フレアは声をかける。
「貴女、しばらくこの家で暮らすといいわ。シャヴルールの民におなりなさい」
「フレア様……!」
悲鳴を上げるような返事をしたのは、控えていた使用人だった。
「いけません、フレア様。その子供は元いた場所へ帰すべきです」
「何故ですの?」
思わぬ反論を受けたフレアは、当然のように聞き返す。
「困窮している子供を助けるのは、誇りある魔女の役割ではなくて?」
「そうかも……しれませんが。見知らぬ子供を屋敷に上げるだけでも、危険を伴うのに……まさか住まわせるなんて……」
「危険? この子は非力な少女なんですのよ? 酷いことを言うのね、貴女」
発言を嗜めると、使用人は口をつぐんだ。
「……失礼、言い過ぎましたわ。私はこの子に街を見せてきます。その間に一度冷静に考え直して、この子をここに住まわせる準備を整えて頂戴」
フレアは、魔女だ。
例え意見が違っても、使用人に八つ当たりなんてしてはならない。
こういう時には時間を置くのだ。そうすればきっと、使用人も冷静になってくれる。そう信じて目を見据えると、使用人は一礼して食器を下げ部屋を出て行った。
少女はスプーンを握ったまま、呆気にとられたようにフレアを見上げる。
「少しお待ちなさい。街に出かける仕度をしますわ」
フレアは少女に告げて、奥にあるクロゼットに向かう。
安心したように頷き、椅子から降りて物珍しげに窓の近くをうろつく少女の、無邪気な様子を微笑ましく思いながら。
シャヴルールの市場エリアは活気に満ちあふれている。
屋台の骨組みの下、店がいくつも展開されており、そこを民たちが行き交っていた。民にはそれぞれ役割があり、各々の仕事に前向きに取り組んでいる。
近隣の陽当たりの良いエリアでは畑が運用されており、土を敷き種を撒いて水を与えれば、野菜という食料が出来上がる。畑の近くには家畜が飼育されており、その肉も食料として民たちに行き渡ることになっている。
「あそこは食料を売っている店ですわ。隣はその食料で料理を作って食べさせてくれるの。あとは……ああ、ここでは服を売ってくれるわ」
店のひとつの前で足を止めると、すぐに商人がフレアに笑いかけた。
「魔女様、可愛らしいお嬢さんを連れていますね」
「ええ。この子は今日からシャヴルールの民になりますの」
フレアは手を繋いでいた少女に、挨拶を促すように視線を向けた。
だが少女は俯いたまま、ぎゅうとフレアの手を握るばかり。突然大通りに出てきて緊張しているのかもしれない。
「そうだ、これを持っていってください。お揃いでお使いになって」
「まあ! 感謝いたします」
服屋の商人は羊毛でできた羽織をフレアと少女の分の二枚を手渡してくれた。
商人は以前、羊毛が手に入らず商売が立ち行かなくなった際に、フレアから多額の施しを受けていた。以降、フレアに恩義を感じて親切にしてくれている。
シャヴルールには、同じようにフレアに助けられた人間が沢山いた。
「これで夜になっても暖かいわね。……照れてるみたいだわ」
羽織を肩からかけてやっても、少女は俯き前髪で顔を隠していた。
フレアは商人と笑顔を交わし、少女の手を引いて先へ進む。
一歩歩くたびに、すれ違う民たちが「魔女様」とフレアを呼び、朗らかに話しかけてくれる。店を覗く度、蒸かしたばかりの芋をくれる。茶を淹れて渡してくれる。微笑みかけてくれる。優しくしてくれる。
フレアはすっかり、苛立っていたことを忘れていた。
民から良くしてもらえるのは、フレアが魔女としての責務を果たしている証拠だ。授かった能力を活かしてクラッドと戦い、困った子供を助け、この地に貢献しているからだ。
やはり、自分は間違っていない。
しかしひとつだけ心に引っかかるのは……フレアが胸を張り前を向く度に、少女が気落ちしていくように見えることだった。
やがて夜も近づき、都市を囲む壁の淵が夕陽に赤く染まり始めた。
少女にも一通り街を見せて回る事ができたし、きっと屋敷に帰る頃には頭を冷やした使用人が少女とフレアに食事を用意してくれていることだろう。
「そろそろ屋敷に戻りましょう」
そう告げると、少女は何故か歩みを止めてしまった。
「どうかしましたの?」
「おっと……! 悪い!」
次の瞬間、わずかな衝撃と共に、繋いでいた手が離れ、少女が尻餅をついた。駆けてきた青年が、少女にぶつかってしまったのだ。
「大変……! 大丈夫? 怪我は?」
フレアはすぐに転んでしまった少女の前に屈んだ。
少女は驚いていたようだったが、怪我は無さそうだ。だがすぐに立とうとはしない。青年も心配したように、フレアの隣にしゃがむ。そして……はっと息を呑んだ。
「魔女様、これは……?」
「え……──」
少女が尻餅をついた、すぐ側。
地面には少女のポケットから零れ落ちたであろう、首飾りと腕輪が転がっていた。
それは、フレアの部屋にあったものだ。
「あ、……あ……」
少女は初めて声を発した。言葉にならない、戸惑いと焦燥と、ほんの少しの罪悪感を含んだ嗚咽を漏らすばかりだったが。
「……っ!」
判断に迷っている間に、少女は宝飾品をひっつかみ、慌てたように走り出した。
フレアに背を向けて、必死に、遠ざかっていった。
「この餓鬼! 止まれ!」
「お待ちなさい」
はっきりと。フレアは青年を制止した。
戸惑った表情でフレアの様子を伺う青年に、心配をかけぬようゆっくりと立ち上がる。
浅く息を吸い、冷えた心臓を暖めるようにフレアは握った拳を胸に当てる。去っていく少女が向かう方向にあるのは、リュコスの地だった。
そういえば、使用人は言っていた──見知らぬ子供を屋敷に上げるのは危険だと。
「……そういう意味でしたのね」
フレアは再び苛立った。
自分の不甲斐なさに、苛立った。
浅かった。少女の境遇をしっかりと理解していれば、こんなことにはならなかったのに。少女の立場に立ってみれば、想像もできたはずなのに。
フレアは自分をなじり、そして決めた。
少女を許す、と。
自分の誇りを持ってあの少女の罪を許すのだと、そう決めた。
「魔女様、あの餓鬼は盗みを働いたのでは……だってあんな高級品!」
「いえ、よいのです。それより、感謝いたしますわ」
フレアはわずかに片膝を折り、スカートの裾を持ち上げて礼をした。
「貴方の正義感に、今、私の心は救われましたわ」
そしてにっこりと、完璧な笑みを青年に向ける。青年の心のもやが、自分の礼と笑顔で晴れるようにと祈りながら。
あの程度の宝飾品なんて、くれてやる。あんなものが無くなったところで、フレア自身に何の不都合もない。むしろあの少女の慰めになるのであれば、いくらでもあげたいくらいだった。少女の本心に気づけなかった自分に憤りすら覚える。
青年は一瞬、フレアに見惚れて呆けていたが、やがて頭を下げ走り去っていった。その背を微笑み見送りながら、フレアは青年の向かう先にある夕陽に目を細めた。
民は守るべき存在だ。たとえ悪事を働かれたとしても。
何故なら悪いのは少女ではない。この世界なのだ。あんな小さな女の子が窃盗を犯すほど追い詰められるだなんて。少女が暮らす区域はいったいどれほど貧しいのだろう。少女を本当の意味で救おうとするならば、シャヴルールに留まらず、他の区域にも貧困が起こらないように都市全体の秩序を創らねばならない。
そのためにはやはり、誇り無き他の魔女にこの世界を背負わせるべきではない。
自分の誇り──そして義務は、魔女として民を守り、このエンクラティアという地を発展させること。そこに組織の隔たりなど決してあってはならない。
いずれ魔女である自分が、この世界の全てを救うのだから。