──生きていく。何の意味もなく、ただただ与えられたこの使命を果たすのが、どれだけ難しいことなのか、みんなはわかってる?
僕はわかってるよ。
だから、遠慮容赦なく獲物を叩き潰して、その脳味噌一欠片も余さず奪い取って、毎日必死に生にしがみついてるんでしょ?
──生きていく。何の意味もなく、ただただ与えられたこの使命を果たすのが、どれだけ難しいことなのか、みんなはわかってる?
僕はわかってるよ。
だから、遠慮容赦なく獲物を叩き潰して、その脳味噌一欠片も余さず奪い取って、毎日必死に生にしがみついてるんでしょ?
青白い月がぼうっと荒野を照らし、果てのない地平線をぼかしている。
吹きすさぶ風がリュコスの魔女・ミアの頬を荒く撫でていく。ミアは頬についた砂を乱暴に拭い、その大きな双眸で夜闇を見据え、力強く一歩踏み出した。
しんとした夜の空気に、彼女の軽い足音だけが響く。色のない乾燥した世界の中、燃える夕焼けの色をした瞳だけが爛々と輝いている。
人々が住まう唯一の都市・エンクラティアの壁の外に出ることを許されているのは、魔女である数少ない少女だけだ。
だが許された少女たちであっても、好きこのんで壁外を歩く者はいない。どうせ延々と荒野が続くだけだ。おとぎ話のような美しい景色も無ければ、仲良くなれる生物がいるわけでもない。
まして他にも都市があって人間が住んでいる、なんて希望はこれっぽっちもない。この世界の人間たちはエンクラティアの壁の中にいる者で全員だ。壁外に人間はいないし、壁内の人間は外に出られない。
それでも尚、たった一人でミアが壁外の荒野を歩いているのには理由があった。
「ちくしょー、どこにいるんだよ」
ミアは怪物を探していた。
怪物。クラッドと呼ばれ、いつも唐突に現れては暴れていく奴らは、魔女にしか倒せない。
魔女である少女たちは自らの身を危険に晒し、競って奴らと戦っていた。何故ならば怪物をその手で倒した魔女は、この荒廃した世界の中で唯一のエネルギー源である魔石・シーラを手にする権利を得るからだ。シーラを多く集めれば集める程、それは魔女が所属する組織の権力となる。
この権力とやらが、どれだけ大事なものなのか、ミアはいまいち理解できていなかった。手に掴もうにも形はない。眺めようにも姿はない。なのに人間たちがこぞって手に入れようとして、躍起になって争い奪い合う。幼いミアにはそれの何が楽しいのか、全くわからなかった。
だが権力という力があれば、食うに困る人が減るのだとある人から教わった。
食うのに困る。これが生きていくことにおいて、一番の敵となるとミアは知っていた。
ならば、その権力とやらを手に入れようじゃないか。その権力なるものを得るのに必要なシーラを、他の魔女よりいち早く、より多く、自分の物にしようじゃないか。
そのためにミアは知恵を絞った。怪物が現れるのを待つのではなく、こちらから探し出して倒してしまえば、手っ取り早くシーラを得られるのではないだろうか? 他の魔女を出し抜いてたくさんのシーラを集めれば、姉さんたちが食うに困らない生活を送れるのではないだろうか。
かくしてミアは動き出した。他の魔女が眠っている深夜に、こっそり一人きりで壁外に飛び出してきたのだ。みながいない間に抜け駆けして、手柄を独り占めにするために。
「これは、そのための、一歩……!」
しかし歩き出して数十分。既にミアは疲弊していた。一歩、一歩、また一歩……どんなに懸命に歩いても景色は変わらない。振り返るとエンクラティアを囲う丸い壁が見えるだけで、他には何も無い。
乾いた地面にはろくに植物も生えず、所々に無骨な岩が転がっているだけ。
障害物がないおかげで、視界の端々まで均等に月明かりが照らす。歩きやすいのは結構だが、どれだけ目を凝らしても荒野が広がるばかりだ。永遠に続くとも思える退屈な景色を目の当たりにすると、この明るさが嫌味にも感じてくる。思わず呻き声が溢れ出た。
──こんなにも何も無いってのに、怪物なんて見つかるんだろうか。
日が昇るまでには戻るつもりではあった。なにせミアは水も食料も持っていない。ミアは飢餓に慣れているからこそ、自身の限界点には敏感であった。こんな何もない場所で飢えてのたれ死ぬなんて間抜けなことはしたくない。
空腹に倒れる前に、一匹でも見つからないものだろうか。
「……──」
あまりに目の前に何もなく、目的の怪物も見つからず、あてもなく歩くだけの作業を繰り返すうちに、普段は使わない脳味噌が退屈で動き出す。ミアは珍しく考えごとを始めた。
──そもそも、怪物ってなんなんだ?
くぐもった黒い瘴気を纏い、金属に包まれた巨体を軋ませ、ガギゴゴと鳴きながら突進してくる怪物たちを、人々は畏怖を込めて“巨人”や“ドラゴン”などと呼んでいる。しかし学のないミアには、その単語が何を意味しているのかわからない。恐ろしいもの、という意味の呼び名なのだろうと推測することしかできなかった。
怪物……あれの性質がひとつでもわかれば居住地を探すのも楽そうだ。縄張りや巣という概念が奴らにあるのかすら知らないが。奴らは普段は気配すら見せないくせに、唐突に荒野に湧き出て人間たちを襲おうと都市・エンクラティアに突進してくるのだ。
観測者である壁の番人が奴らを捉えるのは、既に奴らがある程度こちらに近づいてからだ。敵が眼前に迫ってようやく、魔女に伝達がきて出動命令が下る。それからはおなじみの流れ。壁を飛び出し、怪物を殻に包むように結界を張り、複数の魔女たちが競うように倒す。
時には倒せないこともある。こちらが攻め落とそうとすると、怪物は虚空に逃げ帰ってしまうこともあるのだ。
倒されるか、逃げるか。この二択しか待っていないのに、怪物たちは、どうして性懲りも無く人間を襲おうとするのだろう? もし人間を食い物にするためというのなら、魔女を捕食すればいいのにそれもできていない。なのに怪物は絶滅しない。じゃあ、怪物には他の目的があるのだろうか──
とりとめのない思考が頭を埋め尽くし、変わらない景色に目が飽きてただ足を動かすことしかできなくなってきた頃…──
「う、わ……っ」
不意に足場が消え、がくっと体が前のめりに倒れた。一瞬、嫌な浮遊感に身体が包み込まれる。足元を見ていなかったせいで、谷間に落ちたのだ。ミアは急斜面を滑るように転がっていく。
あちこちを地面で擦りながらミアは落ちていく。軽い身体は勢い良く夜闇に放り出され、くぼんだ岩場の底に叩き付けられた。
「いったぁ……なんなんだよ、もう!」
あてのない苛立ちを愚痴にして零しながら立ち上がる。両手を前に伸ばし、ぐーぱーと開いて屈伸。幸い目立った怪我は無く、膝と腕に擦り傷ができたくらいだった。
見上げると、少しだけ遠くなった月が岩の間から覗く。
よじ上るのは難しそうだ。岩肌はごつごつとしていたが掴めるほど突出しておらず、崩れそうな箇所の見極めもできそうにない。
思わずため息が出る。岩壁を蹴飛ばしてやるも、爪先が痛くなっただけだった。じわり、わずかに目に涙が浮かぶ。
とりあえず、動かねば。いくら夜が長かろうが、刻一刻と朝が近づいていることに変わりない。こんなところで、へこたれているわけにはいかなかった。ミアはどこか上りやすい場所は無いものかと、岩場の影を横へと移動していくことにした。
前後不覚にならないよう、片手を岩肌につけて進んでいく。地面は少し湿っていたが、何もないことには変わりがない。
いよいよもって、来なければよかったという気持ちでいっぱいになったが、ふと片手の感触が無くなって立ち止まる。
「えっ?」
岩壁に、穴が空いていた。
固い岩を切り裂いたような、人が一人通れるくらいの狭い縦穴だ。ひょうと空気が吸い込まれる音がする。どうやらこの穴は奥へと続いているらしい。
大きさからは考えにくいが、もしかしたら、怪物たちの住処かもしれない。
そう考えついた瞬間に背筋に寒気が走る。ミアの棒切れのような細腕に鳥肌が立った。それは紛う事無く未知への恐怖だったが、ここで退くという選択肢はミアの中には無い。
──だって、本当に怪物がこの奥にいるのなら、ぶっ壊して倒さないと。
それが姉さんたちを救う手立てなのだから。
ミアはきゅっと唇を噛み、先の見えない暗闇を睨みつける。
細い洞窟はさほど大きくはなかった。
狭いのは入り口だけで、中に入り込むとすぐに行き止まりにたどり着く。そこは人間が数人は落ち着けるようなぽっかりと開けた空間になっていた。
だが、問題は行き止まりになっている壁にあった。
「なに、これ」
その壁はやけにつるりとしていて、板のように平べったい。下の方、ミアの腰の辺りは少しだけ出っ張っており、そこにはボタンのようなものがいくつも並んでいた。結界を張る時に使う機械についているものと、似ている。
ぺたり。ミアはその平たい壁に手をついてみる。さっきまで触っていた岩とは明らかに感触が違う。表面はひやりとしていて、全く凹凸が無い。固いことには固いのだが、岩に比べれば容易に砕くことができそうだった。
そして何より、四角いその壁は真っ黒に塗りつぶされている。最初は鉄かと思ったが、どうにも触った感触が違い過ぎるし、黒すぎる。
ミアは視線を降ろす。このいくつか並んでいるボタンのようなもの。
いちかばちか、触れてみるかと好奇心が囁いてくる。
何の成果も挙げずに帰るのも馬鹿らしいし、これが怪物の何がしかに続いている可能性だってあるし、そもそも勝手に一人で外に出てきた時点で十分危険を冒しているのだ。
ここまで来たら何をしても同じじゃないだろうか。いや、何かしてでもこの夜を実りある旅にすべきじゃないか。
誰へでもなく言い訳をしながら、ひとつだけボタンを押し込んでみる。すると、ウィンと歯車が掠れ合うような音が鳴り、“それ”は起きた。
「っ……、眩し……!」
黒く塗りつぶされていた壁は、突然鮮烈な光を放った。ちかちかするほどの光にミアは咄嗟に目を瞑る。その間にカリカリと何かが動き出すような小さな音が響く。それは怪物たちが動く時の音にほんの少しだけ似ていた。
恐る恐る薄く目を開くと、光出した四角の中に、黒く小さい何かが一列に並んで浮かぶ。
『Hack the future. Show your DUNAMIS ――』
細かく線を刻むように並ぶこれらは、恐らく、文字というものだろう。ミアはそれを知らず、字を読むという行為自体ができないが、何かを伝えようとしているものであることだけはわかる。
──これは一体、何なのだろう。誰のものなんだろう。何のものなんだろう。もしかしたら本当に怪物に関係があるのか? 瘴気を放ってはいないけど、機械音がする気がする……壁に埋め込まれているからそのまま全てを運ぶことはできない。でも、怪物の仲間なら、一部だけでもぶっ壊して持って帰るべきだろうか──
混乱の中にあり、ただでさえ足りない頭でいくら考えても答えは出ない。その白く光る壁を見つめるうちに眼球が痛み始めた。
ここに長く居てはいけない。更なる起動音のようなものが響いた時、研ぎすまされたミアの本能がそう叫び出す。
ミアは、それ以上は何もせずその場を去った。
リュコスに帰ると、既に日が昇っていた。
半日ぶりに見る太陽は酷く輝いていたが、その眩しさは洞窟の中で見た四角とは性質が全く違う。浴びていて気持ちのいい光だった。
ほとんど体を成していない門のような鉄線をくぐり、こっそり戻ろうと静かに領地に踏み入ったミアだったが、誰かが駆け寄ってくるのが見えて立ち止まる。それはやせ細った子供だった。
リュコスの地には珍しくはない孤児の女の子だ。壁に近く、群れるのを嫌うリュコスの地には親のない子供などいくらでもいる。食べ物も金もあるわけがない。少女にミアは過去の自分を重ね、時折面倒を見てやっていた。
「どうしたの? なんかあった?」
ミアの足に抱きつくように近寄ってきた少女を受け止めながら、にこりと笑顔を作って訊ねる。すると少女はもじもじと身を捩りながら、小さな手を開いた。
「ん」
見せてくれたのは、高価そうな宝飾品だった。細い鎖の先に赤く輝く石がついている。
「お、いいもん拾ったね。売ったら飯になるよ」
褒めてやりながらぽんぽんと頭を撫でると、少女は嬉しそうに破顔した。ミアは理解していた。恐らくこれは盗品だろう。こんな高級品がその辺に落ちているわけがない。少女が肩にかけている真新しい羽織も、恐らくは。
だがこの孤児の少女を叱りはしない。こんなの、盗まれる方が悪いのだ。
壁に囲まれた狭い世界では、どれだけ手を汚したって生き延びたもん勝ちなのだから。
「そうだ。ご褒美にこれあげるよ」
ポケットに手を入れ、ミアは一輪の花を取り出す。
洞窟を逃げるように駆け出て、なんとか岩場をよじ登り、ひたすら壁内を目指して走っていた途中──ふと目に留まった花。乾いた大地にうっかり咲いてしまった、強くて可憐なその花は、小さいながらに凛と立ち、淡い色彩の花弁を優雅に広げていた。
「きれーでしょ? 君に似合うんじゃない?」
少女のかさついた髪をそっと耳にかけてやり、ミアは花を挿してやった。
こんな世界にうっかり生まれてしまった、なんの力も持たない子供。少女はこの花によく似ている。見渡したって碌なものもない。掃き溜めのように隅に追いやられて、何も与えられない。いつ怪物に踏み潰されるかもわからない。
そんな世界で咲く花は、幸せだろうか。
そんな世界で足掻く魔女は、幸せだろうか。
「……ミア? お花、似合ってないかな」
「んーん、似合ってるよ」
不安げに尋ねる少女の頭を撫でながら、ミアは皮肉とも言える褒め言葉を口にする。
頬を上気させて走り去っていく少女の背中を見送り、早朝の空を見上げた。
孤独な夜の旅で得たものは、あの花と、よくわからない洞窟の中での出来事だけだった。あの洞窟で見た不気味な光は、陽の光とはまるで違う。あれが何なのか、気にならないかといえば嘘になるが……
「ま、いっか」
難しいことを考えるのは自分の役目ではない。
ぐっと身体を空へ伸ばして、ミアは盛大に欠伸をした。
このまま寝床へ帰って丸まって眠ってしまおう。そして起きたらまた、怪物探しへ出かけよう。それで怪物をぶっ倒してシーラを手に入れて、権力を手に入れて、腹いっぱいにうまいもんを食べるんだ。
そんな夢を見ながらミアは、一夜の旅に終わりを告げた。